この本の最善の読者は「ワン君」になっちゃうかもしれない直前の、早熟な高校生あたりだと思うけど、私のような、ヘーゲルでも、ベンヤミンでも、デリダでも、いっちょ噛みで、実のところ無教養という中年にも「こんなに思想史とかわかっていいのかしら?」という感じで楽しめる。著者は安易に分かりやすくするのは本当はよくないと、何回も断っているけれど、結局分かりやすく書いてくれているのですごく親切。
要は「自分のアタマをちゃんと使って、ワナにはまるな」ってことか。この至極まっとうな結論を巡って、まっすぐだったり折れ曲がったりする論理に引き回される快感を味わえたうえ、その論理の冷静さと、「ワン君」とか「信者達」へのネトネトした怒りとのギャップが笑えて更にお得。
頭のいい人が怒っているのを読むのは面白い。大江健三郎も昔々、自分への批判に対してネトネト怒っていたけれど、彼の場合は彼の文学全般もネトネトしているので、ギャップがない分、あんまり面白くなかったことなど思い出したりして。
個人的に、つねづね行政文書などで「生き生きしたまちづくり」とか書いてあると、なじかは知らねど非常にムカつくこと、しょぼい市民運動に参加した際、二項対立の人たちが(公務員組合と自民党区議など)、対立していることでいかに両者ともが得をしているかというのを目のあたりにしてきたなど、もともとこの本のテーマに親和性があったということもありますが、それを割り引いても一読の価値があると思います。
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デリダの遺言 ペーパーバック – 2005/10/25
仲正 昌樹
(著)
「わかりやすい言葉」や「生きた言葉」で書かれた哲学書や思想書が多く出回っている昨今。とはいえ、安易にその「わかりやすさ」や「生き生き感」を信用してしまっていいのか。哲学や現代思想には、「語りきれない」ものが絶えず含まれるのではないか。それが、デリダによる「音声中心主義批判」の本質ではなかったのか?
著者は、そういった問題意識から、まず個人的体験にそくしつつ、「生き生き」とした言葉がどういう場面で、どのように使われているのかを論じる。つづいて、「生き生き」への賛否をめぐる思想史を、フィヒテやゲーテからはじまり、ヘーゲル、マルクス、フッサール、ベンヤミン、デリダらの言説を振り返りながら概観する。さらに、思想業界における「生き生き」とした言葉を語る論客のあり方を批判的に検証する。批判の対象は、柄谷行人や竹田青嗣、高橋哲哉、斎藤貴男など。最後に、著者自身がいかに「生き生き」とした言葉を嫌っており、いかにして「生きた言葉を語る死者」にならないよう、心がけているのかを説明する。
思想史を知り尽くした著者が、現代思想業界に殴り込みをかける。高校生でも読める簡明な記述。仲正節が炸裂する、著者渾身の一冊。
著者は、そういった問題意識から、まず個人的体験にそくしつつ、「生き生き」とした言葉がどういう場面で、どのように使われているのかを論じる。つづいて、「生き生き」への賛否をめぐる思想史を、フィヒテやゲーテからはじまり、ヘーゲル、マルクス、フッサール、ベンヤミン、デリダらの言説を振り返りながら概観する。さらに、思想業界における「生き生き」とした言葉を語る論客のあり方を批判的に検証する。批判の対象は、柄谷行人や竹田青嗣、高橋哲哉、斎藤貴男など。最後に、著者自身がいかに「生き生き」とした言葉を嫌っており、いかにして「生きた言葉を語る死者」にならないよう、心がけているのかを説明する。
思想史を知り尽くした著者が、現代思想業界に殴り込みをかける。高校生でも読める簡明な記述。仲正節が炸裂する、著者渾身の一冊。
- 本の長さ255ページ
- 言語日本語
- 出版社双風舎
- 発売日2005/10/25
- ISBN-104902465078
- ISBN-13978-4902465075
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商品の説明
出版社からのコメント
印刷前の原稿を読みながら、何度もうなずき、何度も驚き、何度も笑いました。明敏で知性的な記述あり、ユーモラスでアイロニカルな記述あり。序文で著者が述べているとおり、安直な「わかりやすさ」が嫌いな著者が、あえて「わかりやすく」書いた本だといえます。
主題は、デリダの「音声中心主義」批判を著者なりに理解したうえで、日本の言説情況にそれを適用するとどうなるのか、というものです。一方で、主題を解く過程には、現代思想の基礎知識を概観する作業も含まれることから、「現代思想の入門書」的な本であるともいえます。
「冷徹」と「怒り」が混在する仲正ワールドを、ぜひご堪能くださいませ。
主題は、デリダの「音声中心主義」批判を著者なりに理解したうえで、日本の言説情況にそれを適用するとどうなるのか、というものです。一方で、主題を解く過程には、現代思想の基礎知識を概観する作業も含まれることから、「現代思想の入門書」的な本であるともいえます。
「冷徹」と「怒り」が混在する仲正ワールドを、ぜひご堪能くださいませ。
著者について
仲正昌樹 (ナカマサ・マサキ)
1963年広島生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学部教授。専攻は、社会思想史、比較文学。『ポスト・モダンの左旋回』(情況出版)、『歴史と正義』(御茶の水書房)、『「不自由」論』(ちくま新書)、『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)など多数。
1963年広島生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学部教授。専攻は、社会思想史、比較文学。『ポスト・モダンの左旋回』(情況出版)、『歴史と正義』(御茶の水書房)、『「不自由」論』(ちくま新書)、『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)など多数。
登録情報
- 出版社 : 双風舎 (2005/10/25)
- 発売日 : 2005/10/25
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 255ページ
- ISBN-10 : 4902465078
- ISBN-13 : 978-4902465075
- Amazon 売れ筋ランキング: - 843,350位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,828位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 110,730位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年1月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年9月9日に日本でレビュー済み
著者は「聖書」testamentって言葉はもともと遺書を指したと書いてるけど(p160)、だったら書名は「デリダの聖書」って意味かしら。だったらデリダはイエスなんだな、きっと。で、エクリチュールなんだな。死んだ言葉だし。
著者がひたすら茶化しの対象にする「生き生き」主義っていうのは、アントニオ猪木の詩集『馬鹿になれ』(未読ですが)みたいなヤツだな。営業社員の研修なんかでも飛び交いそうな言葉だな。見る前に跳べ! とか…馬鹿になったら本当に事態が好転するかどうか確証はないんで、つまりは幻想なんだな。ユートピアね。
語り口はくだけているけど、本書の「生き生き」批判の破壊力はかなりのモノ。ま、それは著者オリジナルではなくて、デリダ先生の破壊力なワケだけど。
とにかく、軒並み薙ぎ倒されていくね。ルソーの自然人がコケたらマルクス主義的な疎外の克服という理念もコケる。現象学の生(活)世界がコケたら身体性も怪しくなるし、大衆の原像もアレだな。近来のサブカル研究みたいなものも、実は同根だし。ま、社会学って大体は「生き生き」主義なんだよね。理論的には2・3章で整理している。
日本語の「生き生き」という言葉の拾い上げる範囲が、デリダの意図とホントに一致しているか疑問な部分もあったが、許容範囲でしょう。ま、一致してなくても、それはそれで構わないワケだし。
ココでコノ著者を褒めるのはナニかとも思うが、肩のこらない読み物としては悪くない。人間、ウジウジ煮詰まっていると「生き生き」幻想にすがりたくなるんで、これを読んで自戒するのもいいでしょう。
著者がひたすら茶化しの対象にする「生き生き」主義っていうのは、アントニオ猪木の詩集『馬鹿になれ』(未読ですが)みたいなヤツだな。営業社員の研修なんかでも飛び交いそうな言葉だな。見る前に跳べ! とか…馬鹿になったら本当に事態が好転するかどうか確証はないんで、つまりは幻想なんだな。ユートピアね。
語り口はくだけているけど、本書の「生き生き」批判の破壊力はかなりのモノ。ま、それは著者オリジナルではなくて、デリダ先生の破壊力なワケだけど。
とにかく、軒並み薙ぎ倒されていくね。ルソーの自然人がコケたらマルクス主義的な疎外の克服という理念もコケる。現象学の生(活)世界がコケたら身体性も怪しくなるし、大衆の原像もアレだな。近来のサブカル研究みたいなものも、実は同根だし。ま、社会学って大体は「生き生き」主義なんだよね。理論的には2・3章で整理している。
日本語の「生き生き」という言葉の拾い上げる範囲が、デリダの意図とホントに一致しているか疑問な部分もあったが、許容範囲でしょう。ま、一致してなくても、それはそれで構わないワケだし。
ココでコノ著者を褒めるのはナニかとも思うが、肩のこらない読み物としては悪くない。人間、ウジウジ煮詰まっていると「生き生き」幻想にすがりたくなるんで、これを読んで自戒するのもいいでしょう。
2024年1月19日に日本でレビュー済み
この本は、序章を読んだ後に、まず最終章である第5章から読み始めるのがお勧めです。
その上で、1章から4章までのでの本文が果たして読むに値するかどうか、よく考えて決めるのが良いと思います。
デリダの思想にある程度触れたことがあり、それなりの理解があるという人なら、また話は違うかもしれません。
この著書で、著者はデリダのエクリチュール論を盾にとって、代表的な何人かの日本人の思想家を、著者なりには根底的な視点から批判していいます。
そんな批判の一環として、デリダのエクリチュール論以外にも、ベンヤミンのパサージュ論が部分的に援用されています。
一読して疑問に感じた点は数多くありますが、最大の疑問点を挙げるとしたら、著者が具体的に詳しい反論を展開している3人の思想家への批判の論拠の説明が不十分であり、批判自体の饒舌さと比較して、あまりにも批判の論拠が不完全であることです。
一見緻密な議論を展開しているように見えて、実際の批判の中身が、果たして批判対象に深く肉薄しているのかどうか、かなり疑問が残るというのが正直な印象でした。
そんな疑問を裏付ける言説が、最終章である第5章には、いろいろ散見されます。
たとえば、911以降にアメリカ政府が仕掛けたイラク戦争を批判する日本人へ言及する中で、著者は以下のようなことを語っています。
この手の人たちは、自分が感情移入している「社会的弱者」の「生き生き」した生命は尊いが、権力者の死に体の命ならば多少は奪ってもいい、と思っているのである。むろん、共感できる「社会的弱者」の基準などは、かなり恣意的である。
いうまでもないことだが、この手の人たちの共感心は、多くの場合、「社会的弱者に共感している自分」の献身的な姿にうっとりしているだけなので、相手が本当に弱者であるかどうかは問題ではない。もちろん、当人にはそういう自覚がなく、普遍的な正義の名のもとでやっていると思っている。共感する相手は、自分にとって弱者っぽく見えて、感情移入できれば、それでいいのである。いったん感情移入してしまうと、もはや理屈も客観的事実も関係なくなる。別に特定の弱者に共感するのが悪いということではない。社会運動や政治運動する以上、最初から何らかの共感があるのは当然のことである。だがそこで自分たちの「生き生き」した共感が、党派的で偏ったものであることを自覚しておかないと、「弱者」をいじめる「強者」が抹殺しなければならない化物に見えてきて、「アメリカのブルジョアは敵なので、いくら殺してもいい」などと、およそヒューマニズムからかけ離れたことを、平気で口にするようになる。
こうした文章を読んでいると、結局この著者が語りたいことの核心にあるのは、デリダのエクリチュール論にかこつけた、自分自身の世界観的な思い込みの自己正当化なのではないか、という気がします。
上記の批判が正当性を持つかどうかは、特定の政治状況下でのことなので、第三者的には判断できないのですが、この著書には、この手の判断の押し売りが、残念ながらかなり多く散見されます。
著者が主な批判対象としている、竹田青嗣、柄谷行人、高橋哲哉の三氏への批判にしても、具体的な批判の饒舌さの割には、批判対象への深い洞察に基づく緻密な反論の展開には全くなってないのが、何とも印象的でした。
その上で、1章から4章までのでの本文が果たして読むに値するかどうか、よく考えて決めるのが良いと思います。
デリダの思想にある程度触れたことがあり、それなりの理解があるという人なら、また話は違うかもしれません。
この著書で、著者はデリダのエクリチュール論を盾にとって、代表的な何人かの日本人の思想家を、著者なりには根底的な視点から批判していいます。
そんな批判の一環として、デリダのエクリチュール論以外にも、ベンヤミンのパサージュ論が部分的に援用されています。
一読して疑問に感じた点は数多くありますが、最大の疑問点を挙げるとしたら、著者が具体的に詳しい反論を展開している3人の思想家への批判の論拠の説明が不十分であり、批判自体の饒舌さと比較して、あまりにも批判の論拠が不完全であることです。
一見緻密な議論を展開しているように見えて、実際の批判の中身が、果たして批判対象に深く肉薄しているのかどうか、かなり疑問が残るというのが正直な印象でした。
そんな疑問を裏付ける言説が、最終章である第5章には、いろいろ散見されます。
たとえば、911以降にアメリカ政府が仕掛けたイラク戦争を批判する日本人へ言及する中で、著者は以下のようなことを語っています。
この手の人たちは、自分が感情移入している「社会的弱者」の「生き生き」した生命は尊いが、権力者の死に体の命ならば多少は奪ってもいい、と思っているのである。むろん、共感できる「社会的弱者」の基準などは、かなり恣意的である。
いうまでもないことだが、この手の人たちの共感心は、多くの場合、「社会的弱者に共感している自分」の献身的な姿にうっとりしているだけなので、相手が本当に弱者であるかどうかは問題ではない。もちろん、当人にはそういう自覚がなく、普遍的な正義の名のもとでやっていると思っている。共感する相手は、自分にとって弱者っぽく見えて、感情移入できれば、それでいいのである。いったん感情移入してしまうと、もはや理屈も客観的事実も関係なくなる。別に特定の弱者に共感するのが悪いということではない。社会運動や政治運動する以上、最初から何らかの共感があるのは当然のことである。だがそこで自分たちの「生き生き」した共感が、党派的で偏ったものであることを自覚しておかないと、「弱者」をいじめる「強者」が抹殺しなければならない化物に見えてきて、「アメリカのブルジョアは敵なので、いくら殺してもいい」などと、およそヒューマニズムからかけ離れたことを、平気で口にするようになる。
こうした文章を読んでいると、結局この著者が語りたいことの核心にあるのは、デリダのエクリチュール論にかこつけた、自分自身の世界観的な思い込みの自己正当化なのではないか、という気がします。
上記の批判が正当性を持つかどうかは、特定の政治状況下でのことなので、第三者的には判断できないのですが、この著書には、この手の判断の押し売りが、残念ながらかなり多く散見されます。
著者が主な批判対象としている、竹田青嗣、柄谷行人、高橋哲哉の三氏への批判にしても、具体的な批判の饒舌さの割には、批判対象への深い洞察に基づく緻密な反論の展開には全くなってないのが、何とも印象的でした。
2006年1月11日に日本でレビュー済み
デリダ亡き後、その問いかけは残っているか?私としても時々考えることがある。彼が追求したものはそれまで形作ってきたものへの懐疑、そして単純に色分けできないゲーデル的な問い、人の中で生きるものに依存して語る姿勢(音声中心主義)への自戒、排他的な二項対立の問題、抑圧されてきた差延の回復を希求などちょっと思い起こしただけでも一括りできない。もちろん、だからこそデリダなのだが、何をどう勘違いしたのか、脱構築理論などが出てきてしまったりと、必ずしも理解されていたとは言い難い。女であることを強調することで本来のファルス中心主義批判から離れて(絶対的な概念ではなく、男だ、女だというものはその後の文脈の中で後天的に生み出されたものに過ぎない)再び二項対立に戻ってしまうことを警告していたはずだが、彼に影響されたフェミニストの多くは二項対立へと戻ってしまった。 仲正氏があの時、提起しようとした問題は実はこの事だったと思われる。簡略化して敵だと語るのも同じこと。彼がこの本を書いたのは私の内部で印象づけられたもの、プラトン以後続いたそうした生き生きしたものへの自戒からだ。私の残滓を横目に。それをわかった上で書かせたのではなかったのか?でなければ編者の意図を疑う。全くわかっていなかったということだ。北田暁大君にしてもそうだ。なぜあれだけで決め付けるのか?そうしたものこそ彼が批判していたものなのに。リベラルを自称するならなおさら!デリダの遺言は届かなかったのか。彼と同じくそれを希求し、失われゆく意味世界に意味をもう一度付与する者として紡いでいる......この世界のどこかで喪に服していると思われる......彼の言葉もまた。ダメ出しは必要だが、巨大な対立図式に戻っては意味がない。それこそが人間が起こした戦いの主要因の一つだったのだから。この眼鏡、5つ星と見た。これは5つ星に値する。願わくば、雪解けを!
2017年9月16日に日本でレビュー済み
著者自身の著作(新書は特に)はもとより、
本書も実に生き生きとした言葉で書かれています。
本人のアイロニーがそこまで及んでいるかは分かりませんが、
読者はそれ込みで読むのが宜しかろうと思われます。
本書も実に生き生きとした言葉で書かれています。
本人のアイロニーがそこまで及んでいるかは分かりませんが、
読者はそれ込みで読むのが宜しかろうと思われます。